昭和41年03月11日 朝の御理解



 先日ある所から親子、母子、親子の人がお参りをしてこられました。五つ、六つぐらいの可愛い息子の子を連れてから、お参りになられました。ものを言わんのです、子供が。いわゆる、なんです。ほんと、あの難儀な事だと思いますんねえ、もう親の身に立ってみれば、こんなに術ないことはなかろうと。一人子しかもほんとに可愛らしい、娘の子にしたような可愛らしい子なんです。息子の子ですから。
 それがそのものを言わん。まあ色々手を、手当てをした事でございましょうし、また色々迷いもした事で御座いましょうですけれどもです、ほんとに御縁を頂いてお参りをしてまいりました。それで私が「一心に参って来なさい。て本気で子供の病気を親の病気とおっしゃるぐらいだから、御話を頂いて親自身がひとつ本気で改まる気にならして頂きなさい、必ずおかげになる」と私。「ほんなごておかげで物言うごとなりましょうか」と言うて「なる」と私。
 私が言うわけじゃない、私はそのわからんのですけれども、神様がそう言うて下さるんですもの。そして私は毎月。昨日も御礼に出てみえて来られましたけれども、が下関の中林さんの例を話しました。これはもう生まれつき目が見えんのです。勿論現在の医学では、どうにも出来ない。どんなにまあ十四、五にもなられたら、体力ができたらひとつ手術でもしてみるよりほかにはなか。
 まあそれもいっぺんにがっかりさせられんから、慰めにそうお医者さんも言われるくらいだったのですよねえ。それが矢張りここでおかげを受けた。勿論やっぱり遠い所から熱心に参ってみえました。その時に私は「必ず開く」と私は申しました。私が言う様に信心を進めていきなさりゃあ必ず開く。あなた方が遠い近いを言わずに、本気でひとつ椛目のこの御広前に御引き寄せ頂きなさい。言うなればここには、御徳の水御恵みの水があるようなもの、あなたの所はいうなら切り花のようなもの。
 このまましとったら、確かにこりゃもういくら手術しようがどうしようが、もう例えば花のつぼみが水につけなかったら、枯れてしまうようなもの。私その時、椿の花の硬いこんな椿のつぼみの所を頂いたんです。それは切ってあるんです。だからそれは御恵みの水に漬ければ、必ず開く開花すると開くとこう仰る。だから「開く」と私。ですからそれはもう一生懸命でした。下関から参ってくる。
 今でも必ず毎月御礼参りがあります。それがおかげを頂いて、いわゆる開花のおかげを頂いた、目が見えるようになった。もうほんとに目が見えるようになって、あのー時のその両親お爺さん、お婆さんの喜びはもう大した事だった、と言う様な話を、させてもらった。ほんで私ここにですね、ただ一心に参って来なさいと。御理解をよう頂きなさいと。話を聞いて助かる道とおっしゃるのだから。話を聞きなさいと。
 そして自分の心を開けてゆく、親が助かりゃ子供も助かる。ですからしっかりお参りさせてもろうて、しっかり御話を頂きなさいと。もうこれ以上私としては、言えんのです。なしかって、私ここでは御理解をどっちかていうと、かんで含めるように頂いておると思うのですねえ。けれども肝心な所は、神様が言うては下さらんです。段々かんで含めるよう言うてある、含んで下さるように言うてあってもです、答えだけは矢張り銘々がはっきり出さなければならないと言う事です。
 私が答えを言うて、出してやるわけにはいかん。答えは銘々所謂わが心からも練り出させてもらう所のおかげを頂かねばならない。成程と合点したならばです、そのことを本気で行じてみていく所に、答えがついて出てくるんです。自分で計算しようともせずしておいてから、答えが出てくるはずはないです。その辺がですね、何かほんとに非常に私この御取次ぎをさせて頂いて、歯がゆい思いをすることがあるですねえ。
 ここん所を言うてやって、分からせればその、分からせられるんだけれども、そげんして分からせたんじゃあ、おかげにならん。本人がそこを分かれば、おかげになると言った様な事があるんですよ。ですから矢張り本気で銘々が、勉強する気にならなければ、おかげは受けられんですねえ。その事が御取次ぎさせて頂く時にです、頂きます事がですねえ、何故私そのものを言わん人がですねえ、所謂おしの人がもの言う様になると言う様なおかげ頂けるかというと、私が頂くお知らせの中にですねえ。
 「言葉」の「言う」と頂く「言(ごん)」という字。それが「成就」の「成(じょう)」「成る」と言う事頂くんです。ははあこれはもの言うごとなると思うたんですですから。「言葉」という字「言(ごん)」という字。次に「成就」の「成(じょう)」と頂く「成る」です「成就する」と言う事。だから私がもうそれこそ、少しひどいようにも必ずおかげになる。その代わり一心になって来いと。そして一心になって来るうちに、それが私は、分かるだろうと思うてですねえ。
 どう言う事になりますか皆さん。この「言」という字を書いて「成就」の「成(じょう)」という字を書いて下さい。「誠」という字になるでしょう。「言う」という字ですよねえ、ごんべんに「成(なる)」という字ですから、「誠」という字になるでしょう。このお母さんがです、子供の為に一心に信心させてもらい、一心に御理解を頂いて、なるほど、子供の病気は、私達夫婦の病気であったと気づかせて頂いて、こういう難儀な、思いを子供にさせよると言う事は。
 矢張り親の、親のせいであったと言う事を、気づかせて頂いてです、本気でいわゆる真の信心が出来ればです誠。誠という字になるでしょうが。ですからその誠とはどう言う様な事だろうかと、本人が意欲するようになる母親が。だから真の信心をしなさい、真の信心とはこういう信心ですよと言うて、私がなら教えてやったんでは、出来んと言う事。だからそこまで申しました、神様が、神様からこういうお知らせ頂くから、それも私が、暗に申しました。
 必ずおかげになる、そこまで下がらせて頂いた時に、ある方が参ってきたから頂いた。ことを、そばで聞きよりますから、暗に私が言うんです。いわゆる謎をかけるように。どこどこから今そういう難儀な問題で参って来とるが、神様は必ずおかげになると仰るが、それにはやっぱり言う事が成る、矢張り真の信心を追求してこなければおかげにならんが、そこの所を追及する気になりゃ、おかげになるのじゃというて、言うておりましたから、そこのストーブの所で母親は、その事を一生懸命聞いておりました。
 んなら真とは何ぞやというてです、んなら私が教えてやったからというて、おかげになるのじゃないと言う事。これこそこれが真であろうと言う事。と自分で思えるくらいな真心を打ち出して来なければならん。いわゆる真心一心の信心が真で成就する、真であらわれてくる。そこでんならこの事で皆さんが、私それを言うて言い訳ですから。どうぞ一切の上にです、なにごとの上にもです、真で成就せんことはないと仰るので御座いますから。真で成就せん成就せんそのときは、氏子の真が欠けたと悟れと仰る。
 真が欠けるその事を私、今朝から思い出させて頂いて、どうぞあの時の親子の者がおかげを頂く為のお母さんの方が本当に本気で参って来る様になりゃええが、と本気で信心させて頂く気になって、ほんとに、真とは、真の信心とは、どういう信心じゃろうか、とこう明けても暮れてもそれを思い続けるような熱心な信心が出来てくれればいいが、と私思いながら、御祈念さして頂きよった。
 そしたらですね、「私用が御用になることが真じゃ」と神様おっしゃいます。してみると、そのさかたんぼうってと拝むことだけじゃない、もう日参り、夜参りすることだけじゃないということになるですね。けれども、私用が御用ということが分かるために、信心の稽古に本気で通うてこなならん、ということが分かるでしょう。自分で腕こまぬいてたっちゃどういうこっじゃろかというても、分からんのです。そういうことが分からせて頂くために、通うてくる。
 ここには、信心の稽古に来るとおっしゃる。私用が御用になると真、ということは、真とおっしゃる。私の用、というのでしょう、私用とは。私どもが、こうやって御用させて頂いておる。それこそ、神様が助かって下さるために、人間氏子の助かる為に。神と氏子とが本当に助かることのために、神の前立ちとして御用させて頂いとるから、よっぽど御用させて頂いてある、ごとあるです。そうでしょ。御用のごとあるだけじゃあ、これも助からん、氏子も助からん、神様も助からん。
 神様がはがゆい思いをしなさるだけ。かっこだけ紋付袴つけてから、御取次ぎの御用さしてもらいよる。ところがお取次ぎの御用さして頂きよるけれども、それがもう往々にして御用ではなくて私用の先生が多いということです。御用が御用になっとらんということです。いうならば生活の為にここに座っておるとするならば、これはもう御用じゃないです私用です。あたしゃお供えうんと持ってくるけんあれには具合ようある。
 あたしやいっちょんそげなお供えもんせんけんで、もうたいていで、たいでいい加減でよかといったようなです。まあ極端に言うなら、そんな手かげんもなかろうけれどもですやっぱあるです。だから助からんです。神様も歯がゆい思いをなさる事だろう。信者も助からん。なら私でもです私は、例えば今御造営がありよるから、どんどんみんなお供えさせちから、と言う様な気持ちが、これから先でも私の心の中に、もしあったとするならです、みんなが助からんです。
 私の為に私がこう働いているようなもんですから。御用のようであって、それは御用じゃない、それは私用なんだ。その自分自身の欲とか得とかと言った事にはです、問題じゃない、問題は人が助かりさえすればよい、という信心。しかもなら御用に立ちたい、御用に立ちたいというてもです、私がいつも申しますように、汚れたことっちゃったっちゃ、神様は御用には、使うちゃ下さらんと私申します。
 本気で自分の汚れておる所を気づかせてもろうて、そこを改めもすりゃあ、磨きもする、という気にさせてもろうて、そしてしかも御用に使うて下さいとこういう気持ちにならなきゃあ、おかげにならん。私の十何年前の御理解集を読ませて頂きますと、あの時分のことが、ほんとに、あの時分のことがまるっきり、こう生々しい日記を見るように感じるような所があるのです。
 先日、それを見せて頂きよったら、そんな事が書いてあった。「どうぞ神様に、私が汚れ果てております。御取次ぎということを、神様の世界と氏子の世界とを取り次ぐ橋のようなものじゃとおっしゃるが、椛目の御結界は、もう破れだらけの御結界、破れだらけのいうならば橋のようなもの。汚れております。私自身が汚れておるために、橋まで汚れておる。私自身が破れておるために、橋まで破れておる。どうぞ神様この破れておる所に、破れておる所で落ち込むような事が御座いません様に。汚れたこの橋を渡って、汚しませんように。しかもこの橋が真っ黒でございます。
 めいめいが、明るい信心の光を持って、この橋を落ちて込まんように、汚さんように、神様の世界に通って行けれるおかげに、頂けれるおかげを頂かして下さい。」という切実な私の願いを、御理解にして、説いとる所があったんです。私自身が汚れ果てております。私自身が破れだらけなんです。私自身の中に光はございません。どうぞここを渡る氏子が、怪我しませんように、落ち込みませんように、汚しませんように。手探りででもここを通る様な事をしおったら危ない。
 そこん所を私が、ひらにひらに神様に、御詫びをさせて頂いてから、御取次ぎをさせて頂いておる時代があります。今でも厳密に言うたらそうでございましょうと思います。ですから私はいろんな御取次ぎをさせて頂きます時にはです、もう信者とは申しません。私が改まりますから、私が磨きますから。どうぞおかげをやって下さい、という言わばそういう条件をつけて、神様に私願います。
 しかし本気で取次ぎさせて頂くとですね、そうさせて頂かなければおられないです。昨日からここの若先生が断食に入っております。これは自分が御取次ぎさせて頂いてから、そるあ今の入試の事やら、自分で一生懸命なんですからね。その断食でもして願わねばおられんのです実を言うと。それがですね私用では出来ません。お参りをすると御結界には、いつもだぁれも座って御座らん、と言った様な御広前が沢山ありますよ。
 もう金光教の信心のここは生命、命と言われております。それが疎かになっておる現在の教団ですよ。もう私そりゃ本当に実切だから申します。いうならお賽銭の音がチャランチャランとしてから裏からやっとかと出てきなさる。まあその御賽銭の音ででも出て来なさるなら、よかばってん出て来なさらん。とうとう奥まで行かにゃでけん。特別の願いでもあるときには。それならお願いでもしてあげましょうというお願いでです、神様が聞いて下さるはずがないです、御用を難儀と思うておるのですから。
 やっとかっとの御用ですから。そういう意味合いでは、私はおかげを頂いておるけれども、それとても、形だけではいけません。内容が例えば形は紋付袴つけてから、いつもかつも、御結界座っておってもです、内容が私用であってはおかげにならん。そこん所をいつも自分の汚い心に取り込ませて頂いてからです、ほんとの御用にならなきゃならん、いや、神様の御用に使うてもらわなならん。
 ためには手が汚れとったんじゃあ、神様が汚なかち言いなさるに違いない。汚い心の上に着物を羽織っておったんでは、まどうしたろくそなかやつじゃなかろかと思いなさるに違いはない。いつも心にいわゆる錦を着ておるという気持ち、いつも心に紋付袴をつけておるという気持ち、いつも手も足も、体も口もゆすいでおると言う様な気持ち。洗っておると言う様な気持ち、そこの所に本当に焦点を置きます。
 そしてどうぞ御用に使うて下さい。そこに御用にお使い回しを頂くわけなんです。これはまあいうならば、私のこと、です。特に、御用ということに、一番適当なのですから、ああ、まあ、私のことを申しましたけれども、皆さんが御用なさる、ここで箒一つ持たせて頂くことも、御用でしょう。雑巾一つ持たせて頂くことでも、ほんとに御用でしょう。自分の御用じゃないでしょうが、御広前の御用でしょうが。
 「してあげましょう」じゃなくて「させて頂く」のでしょうが。それが御用なのです。そういう意味合いで御用の精神をほんとに、いわゆる御用精神が旺盛だとこう申しますが、そのそう言う様な御用精神がだんだん自分の心の中に出来てきて、しかも綺麗な所よりも汚い所でも選(え)ってさして貰うと言った様な気持ちが、自分の信心の心の中に育ってくる。
 だから教会へ参るとどこでも便所なんかがギラギラ光よる。誰れでんがあんまり普通はせんごたる、嫌な所をいわば率先してさしてもらう。そういう御用を神様は喜んで下さるというふうに思うから、そう言う事になるのです。そこでその御用をです、その御用を、私どもの日常生活の上に持っていかなければいけんのですよ。お百姓しておる人がお百姓の上に、御商売をしておる人は御商売の上に。
 ですから例えば、中村履物店であるならば、中村さんが毎朝お届けされます様に、「どうぞ今日も御用に御使い回しを頂きますように」もう、出来るだけもう使われるだけ使うて下さい、と言う事はお店が繁盛すると言う事なんです。所が口では御用に使い回して下さいと言う。けど只その大繁盛のおかげだけ頂いて御利益を頂く事だけがです、願いであって、御用に使って下さいというのであっては、御用が御用じゃなくて私用なんです。この辺が大体難しい所ですよね。
 なかなか自分の今まで仕事と思い込んでしまっておりますもんですから。それが私用になりがち、我情が出る、我欲が出る。自分の頂いておるその職業というものがです、いわゆる神様が与えて下さっておる、いわゆる神様の預り物といったような天職と申しますでしょう。天職としてわがままを言わず、不足を言わず、そのことを合掌してさして頂く。お百姓さんならお百姓さんがです、自分がつくるのじゃない、自分が蒔くのじゃない、そういう気持ちでです。
 神様の御用に御使い回しを頂きます、と言う事でです、その御用が本当に出来るようにならせて頂いたら、それが真なんだと言う事。真の生活とはそういう生活。真の信心生活とはそう言う様なもの。そろばんばっかり持ってから、そこで玉水の湯川先生なんかは、あちらは大阪ですから商売人が多いですから、もうそのことを端的に分かりやすく教えておられるのがです、「神様はご主人だ」と言うておられます。奥さんは女中頭主人は番頭頭、と言う様な気持ちで商売をさせて頂けとこう仰る。
 集金に行くでも「御主人、只今から集金にやらせて頂きます」「ただいまから商いに出させて頂きます。」帰って来たなら、御主人にあいさつしてから、今日はおかげでこういうたくさん売上が御座いましたと。これだけ沢山の集金がございましたと。言うて神様にいちいち、いわゆるその御主人に報告するのだ。そういうふうなですね、御商売させて頂きよるうちに、段々段々自分の店というのではなくて、成程神様が主であり自分が従である、という主従関係によってですねえ。
 そのほんとの御用が、段々出来てくる稽古が確かに出来るだろうと思います、そう言う事になってくれば。お百姓される方でもそうですよ、御主人という方がおられて、自分はそこの作男(さくおとこ)というふうに思うてみればいいですよ。今日はどこどこの田ば、畑ば耕やさせて頂きました。どこどこに何を蒔かせて貰いました。そしてその働きが良ければ良いほどに、だからそのまかない料が、というか給料というものは高うなってくるんだというふうに、湯川先生は教えておられますです。
 私用から御用に切り替えさせる一つの方法なんですよ。だからお互いがなら一生懸命させて頂いておるとがです、ただその自分の私利私欲のために、我情我欲の為にです、なされておるのではなくて、ちょうど店に雇われておる番頭さんの様な気持ちで、そのうちに使うてもろうとる女中さんの気持ちでです。そこの主婦がそこの主人がそういう心の状態になってくる時にです、そこはいわば日々ほんとの意味での御用が出来ることにだんだんなってくるのです。
 しかもその私用が御用になると言う事。現在の例えば、私用にもう一つ何かをプラスせねば御用にならないと言う事。そこに悩みをプラスする事によって御用になるかと。私用では、おかげにならん。御用に御用になる時にです、例えて言うならば、生まれつきものを言わんと言う様な、いわばそのそんな難儀な問題でも、病気でもです。神様が言うようになる、おかげになると仰るので御座いますから。
 私どもの願いというあらゆる願いがです、真ひとつでなるほど成就するものだと言う事が分かります。ためにはどうでも私どもの私用がです、御用にならせて頂くようなおかげを頂ければ、今日も充分御用に御使い回し頂いて、有難う御座いました、と言う事になる。もう今日は忙しかった、忙しかったというだけじゃあいかん。沢山の御礼が出来たら、神様今日はいわば御主人、今日はお目出度う御座いました、と言う位な気持ちになれ、と仰る。はあ儲かったち。
 はあ自分だけが恵比寿顔、ニコニコ自分だけ。神様の事忘れしもうて。神様お目出度う御座いますだんじゃなか。その代わりに又それとは反対の事も言える。一生懸命御用させて頂きよるのだけれども、どうしても赤字になって、神様いくらいくら赤字になっとりますよ、と言うたらそれでいいわけです、御主人じゃから。いいでしょうが。月末の払いは、御主人いくらいくら足りませんよ、とこう言うたらいいわけですよ。御主人がちゃんと才覚して下さるです。
 それを自分が才覚せんならんごと思うとる。自分が払わんならんごと思うとる。その代わり、ちいっと売上が上がるともう自分のここにがばっと入れることだけを考えとる。これじゃいかんです。もう、実際言うたら、もう私用が御用になったら、こげな楽な事はないです。でももう借金があると、頭が重とうしてこたえん。なら自分の借金と思うとるもんじゃから。借金は神様の借金御主人の借金。ですからその事を日々電気を切ってから、こう神様の前に御届けをする方があるそうですね。
 今日は幾ら幾ら売り上げた。今日は幾ら幾ら欠損だったと。けつを取って下さるのは、神様なんだ、御主人なんだ。そう言う様な生き方からでも、私用から御用になっていけれるほんとの御用が出来るようなおかげを受けられると思うですね。私用から御用が出来るようになる、その事を真だとこう仰る。それが本当の事だと言う事なんです。私ども本当な生き方、本当ないわゆる信心生活が出来れる為に、私用から御用の出来れるおかげを頂かなきゃなりません。
 言葉だけの御用じゃつまらん。幾ら紋付袴着けといて是が御用だ御用でござると言うても私が自分の生活の為に、自分が儲けだすために、もし私が座っておると言う様な事であったら、いかにも御用のようであっても、それはもう私用だ。もうそうなったら神様が歯がゆい思いをなさる。信者も助かる事はないと言う様な事になって来るでしょう。どうぞほんとの御用が出来ますような信心をひとつ願わないといけないと思いますね。
   どうぞ。